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2007年11月3日土曜日

チュパグルイ神話/石のリング

こちらへ退避させます。
最初からこうすれば良かったんだな…。
お暇な方はどうぞ。

*石のリング*

ch-rock.jpg

13339字

 1999年に私がやっとのことで日本の地を踏み締めた時は、
ーー人生において最高の安堵を手に入れた瞬間であったーーと言っても過言では無い。
私は現在、愛する日本において生き生きと仕事をこなし、楽しんでいる。
しかし、2008年にオリンピックを控え、チャイナライジングという現状を延々とメディアが垂れ流すが為、
あの筆舌に尽くしがたき過去の記憶を思い起こすのは容易なことである。
その事も相まって、私は毎夜悪夢にうなされているのだ!
あの…叫び声を忘れようとしても!
ああ!どうして脳は鮮明に記憶してしまっているのだろうか!!
簡単に記憶は夢により、そのままに再生され、現在の私をジグソーパズルをひっくり返したように、ばらばらにする!
私は…記さねばなるまい!
この事が恐らく私の悪夢を緩和し、そして解放するのだ!
 1999年当時、私はPCも持っておらず、また大変情報が少ない状況にも関わらず、
幼少の頃より淡い憧れの的であった中国へ(今思えば、無謀とは正にこの事である!)一人旅を決行したのだった。
少年の頃に出会った三国志がきっかけとなって、様々な中国古代の本を愛読していた私は、
それらが史実とはかけ離れた過剰な演出の創作物が多々あるとはいえ、
素晴らしい世界が拡がっているものと妄想し、僅かな貯金をはたいて大学3年の夏に旅立った。
私が選んだ地は、江蘇省南部の地、隠頭区である。
現代の中国が生み出すモノに大した魅力も感じない私は、北京などよりも、明時代に首都を築いた南京の近くに興味があった。
私はガイドも連れず、片言の中国語で、田舎のほうへ田舎のほうへと只歩んだ。
到達したその土地は、開発の波が僅かに押し寄せていたとはいえ、
古めかしい家々、遺跡が残されており大変気に入った。
が、やはり近代に入って、それらは改築されたのか、文化的な昇華を経たとは露にも思えないような遺跡も多くあって、少々落胆した所もあった。
それに、ふと沿岸の遠方を見ると、画一的な、歴史的などとは程遠い現代的な建物が、只配置(しかもそれらは全く同じデザインである!)されており、それも残念な気持ちになったのだった。
私は西洋的な形のベンチに座って、南南東の、
緑のマットを敷いたように、延々と拡がる桑畑を眺めながら、
ポケットから、ぼろぼろの文庫本を取り出した。
その本の背表紙には、拙い字で「柳田太郎」と書いてある。
「人間の想像力とは、素晴らしいものだな」
そう、私は自らを失笑して、その地を去ろうとした時、
遠くの路地辺りからだろうか?
「シャンシャカ、シャンシャカ」
「ニィー!クゥァ!バォゥ!
 ニィ-!クゥァ!バォゥ!」
という掛声を聞いたのだった。
 私はーーその祭りのような掛声が何処から聞こえてくるのかーーと振り返って見た。
視界には街路樹の奥に小汚い家々が連なっているのが映った。
そして更にそれらの奥の路地から、その掛声は聞こえてくるようだった。
「ニィ-!クゥァ!バゥ!…」
声はドンドン右手に、東の方へ遠のいていく。
中国のお祭りと言えば、爆竹が鳴り響くような派手なものだと思っていたのだが、この掛声の音からして、
それはまるで日本の祭りのようである!
「まさか!ここに祭りの元祖が残っているのか!?」
私は、先程落胆していたこともあり、反動となった非常な期待は急膨張した。
文庫本を手に持ったままに、ゴツゴツとして荒れ果てた鋪装されていない道を横切って、その掛声の元へ吸い寄せられるようにして近付いていった。
ちらちらと家々の合間から見える彼等の姿は、何か神輿のようなものを担いでおり、腰辺りにその「シャンシャカ」という音の源泉があるようだ。
彼等に近付く為には、更に奥の路地へ行かなければならないのであるが、なかなかその道が見つからなかった。
しかし、やっとのことで見つけた北へ向う道は、石壁が高く両側にそびえており、まるで迷路のようである。
正にこれは!
モンゴルの騎馬隊を防ぐ為に作られた古い城壁!
「ああ!なんとも!残っているではないか!」
と、私はそのままに残されている遺跡に大変感動し、
そして耳を澄まして、掛声の聞こえる方向へ歩いていったのであった。
 私は、その迷路のような石壁(それは日本の石垣とは異なり、大変大雑把に積み上げられた物である)の中で只々、その掛声が聞こえてくる方向へ歩いていった。
しかし、壁、少し歩くと、またもや壁である。
「この道順…ではない。ええっと…こっちか?」
少々この迷路に辟易(へきえき)してくると、
徐々に不安な感情が渦巻いてくる。
「ああ、やはり案内役は必要だったな…」
私は、周囲の石壁の景色の中、唯一の広い空間である空を時折眺めたのだが、
経済発展を遂げる直中の、工場から流れてくる煙りに塗れた空は、お世辞にも美しいとは言い難かった。
その光化学スモッグが吹き荒れるような汚い空を、ふと見る度に、何か、私の淡い期待の心持ちが段々と、くすんでいくように感じた。
人間の素晴らしくも、危険な衝動。
そう、私の好奇心もまた掠(かす)れていくのだ。
そのくすみ、そして掠れた後に、私の中から現れた感情とは、恐怖である。
未知の土地で、
言葉もさほど通じず、
訳の解らぬ祭りの掛声に惹かれ、
ほぼ迷い、
何時の間にか私は……
足を止めているのだ。
「どうする…今ならまだ明るいし、戻れる可能性がある…」
しかし、この葛藤(かっとう)を制したのは、やはり幼少の頃より育(はぐく)まれた期待の記憶であった。
私は何の為にこの中国へ来たのだろうか!?
そうだ…それは淡い期待の崩壊か、または新鮮な驚きと発見の何れかを、
私はこの目で観る為にここへ来たのだ!
奥の通路を横切る集団!
彼らが私に、その答えを示してくれるに違い無い!
「恐れる事等無いのだ…」
私は文庫本をお守りのごとく握りしめた。
何かに頼るようであり、また、守護神にでも守ってもらおうとするかような動きだった。
私は息を飲んで、近付いていく。
 未知の事物を垣間見ようとするこの心地よい恐怖!
私は石壁に、左手をそっと添えて、息を殺して覗いた。
が、再び集団は西のほうへ向きを変えフレームアウトしてしまった。
「くそ、もう少し…」
この複雑怪奇な迷路は先がどうなっているかが、兎に角分かりにくい。
かつて中国を完膚なきまでに叩きのめしたモンゴルの騎馬隊や大日本帝国陸軍と言えども、この迷路には悩まされたに違い無い。
時にこの石壁は、3m程の高さであるかと思いきや、50cm程の高さに変化したりしているのだ。
私が当初大雑把な石壁と感想を述べていたが、その記述は少々異なっていたことを訂正したい。
厚さが60cm程の重厚な部分も見られたからである。
何故にこのような迷路を造り上げたのだろうか?
恐らくは敵を誘導する仕掛けであろう。
水も人も流れやすい所へ流れていくものなのだ。
その心理を利用したこの石の迷路というものは、侵入した騎兵や歩兵を苦しめたに違い無い。
私は石壁の高さが1m程の所で、その壁をよじ登った。
私が求める集団こそ見えなかったものの、彼等が向おうとしている所が何処か、大凡(おおよそ)の予想がついた。
彼等が向っているのは太湖と呼ばれる湖である。
 私の目に映る、山々の稜線と海のように広大な湖の遠景は、先程の恐怖、好奇心の心情を僅かであるが、沈静させた。
そのふとした安らぎは、かのブルバスが自我崩壊の中で記した「墜落」のある一説を読んだ時のような心境である。
私は、雄大な景色が漸次(ぜんじ)に精神を回復してくれるのを嬉しく思ったのであるが、
しかし、この周辺の迷路に何やら異様な石群も現れ始めたのを想起し、またそれらが増殖しているのを確認すると、その安息を得た精神はパラパラと崩れていった。
ある程度、その迷路を俯瞰(ふかん)した映像を脳に焼きつけ、そしてよじ登った石壁から飛び下りると、途端に視界は陰鬱(いんうつ)な迷路が占め、私に再び恐怖が襲うかと思われたその時、
背後に何か、生物の吐息を感じた。
こめかみに何とも言えぬ汗が伝い、私は降りて膝を着いたままに動きを停止した。
しかし、その吐息はやがて、
「クンクン」
という鳴き声に変わり、私はほっと安堵して振り返った。
小さな痩せこけた子犬が居たのであった。
恐らくハスキーとシェパードの混血であろうか?
大変愛くるしく、その、人に慣れたような仕草からして捨てられたのであろう。
私は、不意に現れたこの子犬を、迷路に苛(さいな)み、苦しむ心境を共有する友人のようにして膝を折って撫でてあげていると、また、
この子犬が腹を空かせているのだと気付いて、私も今日は食事を取って無い事を思い出した。
 寂然(せきぜん)とした石壁の迷路の中、既に太陽が中天を過ぎ去った午後の異様な石群の斜に射す影は、まるで私の体を射すかのように、その漆黒の色と尖鋭(せんえい)を見せ始めた。
私は食事を昨日から取っていない。
非常に安価な値段で食事が取れるのであるが、中国に降り立ち、隠頭区に於いて始めて口にした料理というものが大変合わなかった。
一般的な、日本人が想像する中華料理とは全くかけ離れたものであり、あの見栄えからも、
何か皮のようなコリコリとしたモノばかりであったからである。
私は偶々(たまたま)、そのような不味い店に立ち寄ったのかもしれないが、初めての体験というものは人に鮮烈な印象を与えるものだ。
他の店に寄ってみたものの、その地区の料理は全てそうであり、慣れることが出来なかった。
しかし、そのままでは流石に腹が減ってしまう。
私はもしもの時の為にと、日本から持ってきた缶詰め類の保存食を食べたのであった。
私の今回の旅行の日程は、一週間と予定していたのだが、その保存食のストックは3日分程であるので、なるべく節約したかった。
しかし、目前の、空腹に飢え、毛並みも乱れ、また、人に捨てられた記憶を乗り越え、
信頼と忠誠を保持するこの子犬の姿に、私は何か心通うものがあった。
それは私の愁然(しゅうぜん)とした精神のパズルを補うピースのように。
私は魚類の缶詰めをその子犬に分け与えた。
すると、その子犬は私の目を見続けて、指示を仰ぐようである。
「いやいや、食べていいんだよ」
私が一切れ口にすると、それを合図のごとくして子犬も食べ始めた。
なんとも…この子犬はよほど不味いものを食わされていたのだろう。
「ハムッ!カタカタ!フモグフモグ…」
と、こんな美味しい物は食べた事がないといった喜び様だった。
子犬がその缶詰めに夢中になっている姿を見て、
私はそっと立ち上がり、そのままゆっくりと迷路の奥に進んだ。
のであるが、ふと後ろを振り返るとその子犬が付けて居た。
「ふむ、もう食べたのか」
と、私が戻って缶詰めを確認するとまだ残っている。
すると再びその子犬は食べ始めたのである。
「なんとも…お前は礼を知っているんだな」
私は大変その子犬の心、精神が気に入って名前を付けて、この迷路を共に踏破することにした。
「私の家には、リムという犬がかつて居たんだが…どうだい?」
そう話し掛けると、シッポを振って喜んでいるようだった。
私は旅の友を得て、非常に自信が湧いてきた。
しかし、その時、
「ニィ!クゥァ!バゥ!」
という掛声が風に乗って聞こえてくると、
私の精神は途端に表面を白く曇らせ、恐怖と好奇心がガラス窓に垂れる雫の如くして私の中に墜ちて染みてゆく。
しかし、私にはもう孤独という恐怖は払拭されたのだ!
「さぁ!リム。付いておいで!
 私は見なければならない!」
この時、私は希望の光りを自ら掴むようにして鼓舞していたが、悲しくも、この石の世界に対する認識と理解とが進む内に、
その光りを易々と遠ざけてしまうのであった。
 もしも、私の姿を見た地元住民が居るならば、その光景を奇異として見るに違いない。
石壁の迷路に日本人と中国の犬が闊歩(かっぽ)しているのだから。
そして、心の内で哀れんでいたであろう。
私が先程使い始めた描写、石群。
この迷路にその石群が現れ始めた時は、その形が何か、常人には解り得なかっただろうし、私も最初は理解が出来なかった。
只のまる長い石灰石のような物だと思っていた。
しかし、それらが徐々に増えるにつれ、その形を変化させているのを知覚した時に、私は初めてこの石群が何であるかが、朧(おぼろ)げながらも、解ったのだ!
そして、その石群は、私が追い求めている集団とリンクしているのは間違いない。
その石群は、偶像の類いの形のようであるが、しかし!
それは人の手による人工物ではない、と思われる程の奇怪な形である。
自然の風化による奇跡であろうか…!?いや!
狂神が作り出したモノとしか考えられない!
人間が隠したくなる情報のさらに醜悪な物をその石群は現しているのだ!
私は、その石群の理解が増していくと、おぞましい恐怖が背筋に走ったのだが、その時、リムがその石群の一つに近付いた。
そして…それを舐め始めたのである!
私は、犬が泥に含まれる栄養物等を摂取する習性を知ってはいたが、その目に映る映像が極めて精神錯乱を及ぼしかねないものであることを恐々と感じて戦慄すると、
すぐさまリムを抱き上げて小走りに、まるでその映像の記憶を背後へ振りほどくかのようにして逃げ出した!
リムは私の目を見つめて、キョトンとしているが、私は顔面蒼白である。
私は、先程、脳に焼きつけた迷路を俯瞰した地図を思い起こして只只、
「太湖へ太湖へ…」
と、リムを抱き締め、呟きながら、地に足が付かないような性急な足取りで進むと、
青臭い雑草と廃棄物の入り交じる水の香りを感じた。
もう迷路は終わりを告げていたのだ。
石壁の迷路は進む内に徐々に、その高さを無くし、私の視界には山々と湖が映った。
閉塞感漂う世界から、この開放的な情景への移行は、私にふとした安心感を与えてくれる。
リムを降ろして、暫く二人で見入ってしまった程だ。
かつての偉大な文人が、この景色の虜になったわけである。
私はその迷路を脱出したと解るや否や、石群はその石壁に張り付くようにしてあるので、
振り返るという行動だけはしまい、と心に決めた。
リムは何時の間にか私に大変慣れて、私の左足にちょこんと寄り添っているので、もうしばらく、
というより、この旅が終わるまで共にすることにした。
この決断は私の愚かな旅路で唯一正しい選択だった。
いや、正しい選択であったか等は、読者の判断に任せよう。
もしリムがいなければ…ふむ、私は想像することを停止する。
集団は湖を前にして旋回し、そして、左前方に見える突出した岬へと向っていた。
その時は、もう彼等は言葉を発してはいなかった。
私とリムは、彼等が振り向いたとしたら気付かれてしまう距離にまで近付いていた。
 葦(あし)が生い茂る湿地帯に添って、集団はその岬のほうへ行進していく。
私とリムは彼等よりも高い土手に身を潜め、その長い葦にひっそりと、その姿はまるで伏兵のようにして、彼等を観察した。
先頭に旗を持つ人間が一人、神輿を担いでいる人間は四人、そして神輿に乗っているのは一人という構成だった。
神輿は神の乗り物であり、乗る事は禁じられている所が日本では多々あるわけだが、これはまた違ったものなのであろう。
何とも神妙な顔つきで揺さぶられている、その神輿に乗った主役と思しき人物は16、7才の男性に見えるので、恐らく、この集団の平均年齢は15~20才ぐらいではないだろうか?
そして、彼等の行進によって
「シャンシャカ」
という音も聞こえてくるのであるが、それが何によって鳴っているのかは解らなかった。
彼等の腰の辺りに鈴のような物を付けているかと思ったのだが。
私は次いで、その神輿自体に視線を向けた。
年月を経た古い木材で、華美な装飾はなく質素だった。
しかし、私はその装飾に、あの石群の形が施されているのを見ると、
「ああ!やはりあの迷路の石群と関係があるのだ!」
と、実際に私の思惑が的中したのを確認し、大変喜悦(きえつ)した。
そして、今度はその旗手に目を移すと、何やら旗に漢字で文字が書いてある。
私はこの時、漢字が読めるという事実に大変興奮したものだ!
少々掠れていたとはいえ、こう書かれてあるようだ。
      真~包~到神
「神」と書かれてある!
正(まさ)しく未知の神を崇(あが)める祭事に違いない!
「到」は日本語からして、到達という意味合いであろう!
掠れた読めない字は、その時は少し考えたものの、神という字に興奮して、さほど気にしなかった。
しかし!私は今思えば、その掠れた字こそが極めて重要な文字であったと断言できるのだ!
この時が大惨事に巻き込まれる瞬間であったとしか言い様が無い!
ああ!私がこの掠れた文字を読めてさえいれば!
私はそこで日本へ引き返したというのに!!
私はその集団から目を移し、彼等の向う岬を見てみた。
生命力豊かな緑と、死を思わせるような赤のグラデーションを為す森林があり、
そしてそれらの合間に白装束のような衣装を着た人影がちらりと見え、そして数々の村民が待ち構えているようである。
「なるほど、あの石の迷路において人と会わなかったのは、こういう訳であるのか」
と、妙に納得すると…
私はその祭りの集団を追ってしまったのだ…。
 既に日没が過ぎ、赤黒い空が湖面に映って、幻想的であると形容したいところではあるが、
先程の雄大な景色は、太陽の光を失うに連れ変化し、
近辺の産業廃棄物の腐ったような匂い、そして生活排水の濁った暗い深緑の水面と相まって、どこか無気味であるとしか言い様が無い。
祭りの集団を追うと、その岬も近付いてくる訳だが、何やら人が集まっているとはいえ、日本の祭りのような賑やかさは無く、非常に静かで、何か厳粛な雰囲気だった。
岬の鬱蒼(うっそう)とした森林に私が追い求めてきた集団は吸い込まれていき、完全に見えなくなってしまった。
見えなくなる瞬間の彼等の表情は、神妙というよりも、どこか…そうだ、恐怖に包まれていた。
その恐怖の表情は私に伝染し、周囲の無気味な雰囲気と交わり、背筋が凍った。
しかし、この時の私の心理は、恐怖と共にある好奇心のほうが強かった。
恐らく誰も知らぬ奇祭を垣間見る最初の日本人であるのだ、と考えると、
必ず見届けてやるという功名心が、掻き立てられずにはいられなかった。
私達は葦が蔓延(はびこ)る湿地帯に隠れつつ、追い掛けてきた訳だが、流石に視界が悪くこの場に居ては、その儀式を見る事ができない。
「静かにしておいてくれよ?」
と、リムを見たのであるが、この子犬も何か恐怖に包まれたように、只、その岬を見つめていた。
私はリムを抱いて、その湿地帯から出ると、素早く森林の木陰に隠れて、そろそろと接近した。
村民は既に、岬の先端よりやや後方の広い荒れ地に集まっているようで、そこから篝火(かがりび)のような光りが奥から漏れていた。
 太陽が完全に沈み、月の明かりが森林に降り注ぎ始めた。
私はしっかりとリムを抱き締め、足音を消すようにして、更に近付くと、
村民が1m程の高さの矩形の祭壇と篝火を、凹字に囲んでいるのを確認した。
そしてその祭壇の前に、追い掛けていた集団の彼等と白装束のような姿の男を、見たのである。
 常緑樹林(じょうりょくじゅりん)の深いブルーの森林はまるで、月明かりのホワイト、そして篝火のレッドの光りを溶かす筆のように、天に伸びていた。
湖面からの吹く風が、さわさわと、その森林を撫で付け、静かな心地よい音が地に降り注ぐ。
私はその神秘的な雰囲気を、自然現象というよりも、彼等が作り出したように感じた。
祭りは最終局面に近付きつつあることが、その厳粛さから伝わってくる。
そして、遂に始まった。
白装束の男が矩形の祭壇に登ると、その男の前面に簡易な寝台が置かれた。
男は先頭で旗持ちをしていた少年を呼び寄せた。
少年の表情は正に、恐慌状態に近く顔面は引きつり、足が震えている。
すると突然!
「ニィ-!クゥァー!バァゥーーー!!」
という村民の大合唱が森林を震わせる!
白装束の男は懐(ふところ)から何かを取り出した!
私はそれを凝視(ぎょうし)すると、キラリと光り、荒く研がれたような刃物そのものであった!!
「まさか!この現代に於(お)いて生け贄の儀式が残っていたのか!!」
私は本の知識により、確かに中国人による残虐な刑が多々行なわれてきたのを知っていたが、それはやはり過去の遺物であり、文字の情報であり、とても空想的だった。
彼等が近代まで赤子の肉のスープや猿の脳みそなど、グロテスクな危険な部位をその文化から食していたとはいえ、今は1999年なのだ!
私は気絶する寸前で、刮目(かつもく)してその光景を只見る他なかった。
しかし、この私の飛躍しすぎた妄想は少々異なっていた。
白装束の男は少年を寝台に寝かせ、少年の足下辺りに立ち、
(ここからが背の高い村民のおかげでよく見えなかった)何やらごそごそと何かを捲(めく)っているようだ。
そして!その時!
「シャンシャカシャカ…、シャンシャカシャカ…」
と音が鳴り響いたのだ!!
そんな馬鹿な!!
少年は微動だにしていないのにも関わらず、音が鳴るわけがない!!
何か未知の物体が揺さぶられているとでもいうのか!?
儀式は最高潮に盛り上がる!
怒号が響き渡る!
「ニーーー!クゥァーーー!バォーーーゥ!」
そして…男は刃物を天にかざした。
 白装束の男はその手を降ろすと、何やら慎重に、細やかな動きを示した!
その時!
「アィヤァァァァアアアアーーーッ!!」
という少年の叫び声が木霊(こだま)する!
「ニィークァーーーバゥーーー!!」
同時に、村民の大合唱が彼の叫び声を吸収し、
その場にいる皆全てがトランス状態に陥ったかのようだ!!
ある村人は、踊っている!
誰が持ってきたのだ!銅鑼(どら)を鳴らす者までいる!
それはしばらく延々と続き、そして!
聞こえる!共に鳴っている!!
共鳴する音がある!
「シャカシャカシャンシャカ!」というあの音色が!
そして…、「シャリン!」と何かが落ちる音がした。
途端に再び、あの厳粛に満ちつつも、興奮の内にある静寂が訪れた。
それは、まるで時が止まったかのように…。
 白装束の男は刃物を置き、何やら細い糸のようなモノを持って、再び何か細やかな動きをしていたが、先ほどの鈴のような音はしなかった。
その作業の間に、神輿を担いでいた少年が一人、悲壮に塗れた表情で現れ、祭壇に登った。
彼の両手には、何かロウソクを灯(とも)す燭台(しょくだい)のような祭器があった。
その祭器は中心に、親指よりも少し大きい円柱状の棒のような形を備えており、その先端は僅かに膨らんでいるようだ。
白装束の男はその細やかな動きを終えると、その燭台の先端部分に何かを乗せた。
私が居る所からはそれが小さく、何かは解らないが!
その祭器の円柱には、血が滴(したた)っているのだ!!
少年が高々とその祭器を掲(かか)げた瞬間!
「シャンシャカシャカシャカ!」という音が再び鳴り響いた!
村民の大合唱が再び起こり、狂ったように踊り、喜んでいる!!
そして!岬の先端に隠れていたのだろうか!!
一頭の馬に乗った青年が現れ!そしてその祭器を受け取ると、私の所へ向ってくる!
「これはまずい!」
私は咄嗟に隠れると、その祭器を持った青年は石の迷路のほうへ疾駆(しっく)した。
危ない所だった、しかし!あれは一体何なのだ!?
祭器に載せられたあの物体は!
この時は私は未だ、完全に理解出来ていなかった。
 儀式を終えた先程の旗を持っていた少年は、男達に両脇を抱えられて祭壇の前に移され、顔が青ざめており、ぐったりとしていた。
私は目眩(めまい)がするような混乱状態で、ふらつきながらも覗いていると、今度はその祭器を持ってきた少年が寝台に寝かされた。
すると再び、先程のような叫び声と大合唱、
そして!あの鈴のような音が鳴り響くのであった。
同じようにして、馬に乗った青年が現れ、その祭器を持ち去っていく。
私は、この繰り返される、おぞましい恐怖の儀式を
気絶しそうな心持ちで眺めていたが、
もう既に恐慌状態に陥っていたに違い無い。
目も虚ろで、足下もおぼつかないような有り様だった。
しばらくすると、一連の儀式が一段落着いたようで、辺りは静寂に包まれた。
私が追い掛けていた集団の旗手、神輿を担いでいた四人がその儀式を終えたのだ。
しかし、まだフィナーレでは無かった。
遂に、神輿に乗った少年の順番が訪れたのだ。
私はこの祭り、儀式の全貌を垣間見てはいない。
「よく解らないあれは何だったのだ!
 あの燭台に置かれた物体は!」
このままでは、私のこれまでの苦労が水の泡になってしまう。
何が行なわれているか、私はちゃんと視覚に捕らえなければならない!
例え、その行為が無謀であろうとも!
私は、背筋を伸ばし、深呼吸をすると、精神を整え、
そろそろと、更に近くに寄っていった。
村民のすぐ後ろの木陰まで!
私のこの行動は、好奇心がもたらしたとはいえ…
全くの愚行であった…。
 主役と思(おぼ)しき少年が寝台に寝かされた。
私の視界には、その少年の足の裏が見える。
ここならばはっきりと見る事ができるのだ!
白装束の男は刃物を天に掲げ、そして…
ああ…私は自らの好奇心を呪った。
見てはならなかった。
そして…捲ったのは彼のスカート状の前掛けである。
それから…ああ!脳が、記憶が再生することを拒む!
彼は…!少年は!
……包まれていたのだ……長く…。
私は、この儀式が何であるか完全に理解した。
そして次の瞬間、ずるりと血の気が引いて、意識は朦朧とし、膝を折って倒れ、しっかりと抱き締めていたリムを落してしまった!
「キャン!」
という鳴き声をリムが発した時、私は、はっとして周囲を見た。
近くにいた男に見つかってしまったのだ!
男は何かを叫びながら、すぐさま私の腕を掴むと、リムを指差している。
どうやら私が泥棒かと勘違いされているようだ!
「違う!私は断じて盗み等…!」
辿々(たどたど)しく中国語で叫ぶと何やら男の様子が変化した。
男は近くに居た村民を呼び寄せ、私の身体検査を始めたのだ。
私は盗人などではないことを証明するために、甘んじてこの検査を受け入れた。
この一騒動の間に、主役の少年の儀式は行なわれている、が、もはやその光景は目に映らない。
私は戦々兢々(せんせんきょうきょう)とした心持ちであり、
体は震えていた。
そして、男がある部分の検査を行なった時に、彼は深刻な顔つきを和らげ、にっこりと笑みの表情を浮かべた。
「ああ!わかってくれたのだ!無実であることを!」
私は安堵し、微笑みを返した。
しかし!それは正に、ぬか喜びだった。
男は白装束の男に向って叫んだ。
そして私を指差している。
白装束の男は、ふむ、と頷いて、手招きをした。
私を検査した男は、ゆっくりと聞き取れる中国語でこう囁いた。
「君 ある 資格」…と…。
 「違う!そんな馬鹿な事があるか!
  私は僅かであるのだ!やめてくれ!!」
そう叫んでも、それは空しく響くだけだった。
私は祭壇に無理矢理登らせられると、寝台に先ほどの祭器があった。
燭台に載せられた物体を確実に私は、見た。
リングだった。
ピアスのように鈴が付いている、生々しい血の滴るリングが…。
そして私は三人の男に寝台に寝かされ押さえ付けられると、秘部をあらわにされた。
白装束の男は、篝火の反射する無気味な笑みを浮かべて、刃物を持った手を天高く、かざす!
「うわぁあああ!やめてくれーー!!!」
そう私が意識混濁の中、叫び倒すと、
ああ…私には守護神が付いていた。
私の危険を察知したリムが、私の左腕を固定している男の足に噛み付いてくれたのだ!
「アィヤッ!」
と痛がる男の隙をみて、私は左腕を素早く振りほどくと、右腕を押さえ付けている男を押し倒し、両足を押さえ付けている男を蹴り倒した!
白装束の男を振払うようにして、祭壇から飛び降りると、脱兎のごとく逃げ出した。
私は恐怖に怯え、震える手足で藁をも掴むように遁走した!
「リム!ああ!リムを置いてきてしまった!
 ごめんよ!命の恩人を!あああ!!」
そう叫んで岬の森林から飛び出し、振り返ってみたが村民が追ってくる様子はなかった。
が、小さな鳴き声が近付いてくる。
「キャンキャン!」
という鳴き声が森の中から聞こえる!
リムが追ってきてくれたのだ!
「ああ!!ありがとう!ありがとう!」
私はリムを抱き締めると、ふと涙がこぼれ落ちる程感激したのだった。
しかし、感慨に浸っている時ではない。
彼等には馬があるのだ。
私達は急いで葦を掻き分け、土手を駆け上がり、そしてあの石の迷路を目指した。
 月明かりに照らされた銀箔の雲は、
吹きすさぶ風によって低くたれ込め、
私に迫るかのように、地を求めるかのように。
薄い暗黒のヴェ-ルに包まれた土手の道を駆け抜け、這う二つの影。
私は迫り繰る恐怖に、追い立てられ只只疾走する。
思考は前方の視界を処理しつつ、先程の絶句する光景を想起していた。
そして、私の一連の好奇心による愚行を嘆き、また私のこれまでの愚かな感銘をしてきたことに後悔し、天を仰いで叫んだ。
「ああ!私は愚鈍な旅人だ!私は間違っていた!!
 当初のあの期待を込め、私の内から現れた表現の数々!
 厳粛?神秘的?何をいうか!
 彼等がずっと叫んでいたではないか!
 あれこそ、狂神ニクバゥの召喚の儀式そのものではないか!
 ああああ!彼等はあの儀式を終えて、狂神の加護を得るのだ!」
私は半分パニック状態であった。
この地を脱出し日本に帰るには、再びあの石壁の迷路を踏破しなくてはならないので、このままの精神状態では不可能だ。
しばらくして、ようやく私は湖面から吹き付ける冷たい夜風と、少々の腐臭の闇香を感じて、冷静を取り戻しつつあった。
走り去る景色に映り始めてくる。あの石の壁が!
丁度その時、厚く水を含んだような灰色の雨雲が月を遮り、周囲は更に黒の帳(とばり)が降りて視界が悪くなった。
しかし、私はこの事を喜んだ。
「はっはっは!ああ!私には天の加護もあるではないか!
 あの石群が非常に見えにくくなった!
 全くありがたい!」
そう叫ぶと、私は二度と見まいと思った石壁の迷路の入り口に到達し、ある事を思い出した。
「ああ!私の守護神!リムを連れていかねば!」
右手からようやくリムが息を枯らして、追い掛けてきた。
「リム!この迷路を共に抜けよう!
 なあに!迷路の地図は脳に焼きつけてある!
 踏破したならば、とっておきの缶詰めで食事を取ろうではないか!
 どうしたんだ?疲れたのかい!?よし…」
そういって私はリムを抱き上げようとしたが、
するりとリムは、私を交わし、暗黒の石壁の迷路に近付いていった。
闇の中に溶けていくリムを半ば呆然と見て、立ち尽くしていると、
リムは
「ハッハッ…」
と何やら興奮している様子だった。
「リム…どうしたんだ?一体何を…」
私は、恐る恐る暗闇から聞こえるリムの吐息に耳をすまし、方向を確認した。
「そっちにはあの石群の像が…あったはず…」
瞼を閉じたような暗闇の中で、石の偶像の姿形が具体的に目に浮かぶ。
くすんだ白色の…
親指を3つ重ねた程の大きさで…
先端が膨らんでいる…
棒状の反った突起物。
近付いて、石壁を前にした私は、リムが足下にいる気配を感じた。
すると…ああ!!
あの…音が鳴っている。
「ハッハ…シャンシャン…」
「ハムッ!ハムハム…シャリンシャリン…」
そんなまさか……!!あああっ!!!!
天空の雲間から月光が射し、黒い帳は地に落ちた。
その、そそり立った棒状の突起物の先端に、物体が見える。
掛けられているのだ!!あのリングが!!!
私の視界には!五つの石像が映り、五つのリングがある!
五輪がある!!
ああっ!あの儀式で、馬に乗った青年が祭器を持ち去った時!
私はさほど気にしなかった!
彼等は、献上しにきたのだ!この狂神へ!
そして次々に理解が理解を生む!
何故に!リムは私のように、迷っていたのだろうか!?
いや、そうではないのだ…。
リムはこの迷路に住んでいたのだ!!
この恐るべき祭り、儀式は、
増殖している石像群を見る限り、多々行なわれているに違い無い!
江蘇省だけでも7500万人近くの人間が住んでいるのだ!
その半分が男性としても、3750万人!
栄養が片寄るとはいえ!食料であるではないか!!
 煌々(こうこう)と照らす月の明かりは、全てを露呈(ろてい)した。
私は完璧に狂った。
「イャャアアアーーーー!!」
叫び狂う私は迷路を慌てふためいて…そして…
ここからの記憶は完全に喪失した。
後の聞く所では、私は空港で倒れており、意味不明な事を口走っていたらしい。
そして、はっと意識を取り戻した時は飛行機の中にいたのだ。
恐らく「日本へ日本へ」と嘆願するように、呟いていた事から親切な人が手続きを経てくれたのだろう。
私の無謀な旅路は、日本の大地に降り立った時、終わったのである。
 最後に重要な記憶を呼び覚まそう!
私がこの大惨事に巻き込まれるきっかけとなった、あの旗の文字を!
ここまで、お読みになったのならば、既に理解して頂けただろう!
掠れて読めなかったが、今ならば断言できる!
解らなかった二つの文字とは、
「性」と「茎」の二字だ!

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